生きるってなんだろうか —— うつ病のなかで見つめる「生」
「生きるって、なんだろうか。」
この問いは、うつ病という深く重たい霧のなかで何度も浮かんでは消える、答えの出ない疑問のように思える。
心が何も感じられず、世界の色がすべて失われたように見える日々のなかで、「生きている意味」や「存在の理由」を考えること自体が、もうすでにしんどい。
でも、それでもなお、心のどこかでこの問いが浮かび上がるのは、人間が「意味を求める存在」であるからかもしれない。
うつ病になると、それまで当たり前だったことが急にできなくなる。
朝起きること、顔を洗うこと、ご飯を食べること、誰かと話すこと——そうした「普通のこと」が、まるで山を登るような苦行になる。
そして、周りの人たちは言う。
「頑張って」「気にしないで」「前向きに考えよう」と。
でも、そんな言葉が余計に胸に刺さる。
「頑張れないからつらいんだ」
「気にしないようにできるなら、もうしてる」
「前を向けるなら、そもそも悩んでない」
と、心のなかで叫ぶことすらもう疲れ果ててできなくなる。
そういうとき、「生きる」ってただ息をしているだけのことなんだろうか、と思う。
誰とも話せず、未来も見えず、ただ時間だけが過ぎていく。
この状態を「生きている」と言えるのだろうか。
何の役にも立たず、誰かに迷惑をかけてばかりで、もうこの世界からそっと消えてしまいたい——そんな思いが、何度も心をよぎる。
でも、うつ病という病は、私たちの「本質」ではない。
それは一時的に心を支配する霧であり、私たちという人間のすべてではない。
悲しみや絶望、虚無感のなかにいると、何も信じられなくなる。
でも、それでもどこかに「このまま終わりたくない」とか「もう少しだけ待ってみよう」という小さな声が残っていることがある。
その小さな声こそが、生きることへの希望なのかもしれない。
生きるということは、きっと「正解」を見つけることではない。
誰かと比べて「役に立つ人間」になることでもなく、「成功」や「幸福」と呼ばれるものを手に入れることでもない。
ただ、自分の呼吸を、感情を、小さな変化を、静かに受け止めていくこと。
時にはそれが「今日も起き上がれなかった」という日であってもいい。
「何もできなかったけど生きていた」という日があってもいい。
そういう日々を重ねていくことが、生きるということの、ある一つのかたちなのかもしれない。
生きていると、ほんのわずかな出来事が心にふれる瞬間がある。
ベランダの鉢植えに新しい芽が出ていたとか、部屋の窓から差し込む光があたたかかったとか、誰かが自分のことを気にかけてメッセージをくれたとか——そんな些細なことが、ふと「まだ終わりじゃない」と思わせてくれる。
それは希望というほど強いものではないかもしれないけれど、それでも確かに「生の実感」のようなものが宿っている。
「生きる意味」は、自分で見つけなければならないものではないと思う。
むしろ、探し続けてしまうことがさらに苦しみを増やすこともある。
意味なんてなくてもいい。
ただ、「今ここにいる」という事実が、あなたの存在が、誰かにとって救いであったり、灯火であったりすることもある。
自分では気づかなくても、あなたが生きているということそのものが、すでに世界のなかの大切な一部なのだ。
だから、どうか焦らないでほしい。
何もできなくても、何も感じられなくても、ただ生きていてくれればいい。
あなたが今日を耐えたこと、それだけで本当にすごいことなのだから。
最後にひとつ、詩のような言葉を——
生きるって、
光が見えない夜に、
それでも歩みを止めないこと。
涙を流しながら、
心が壊れそうになりながら、
それでもまだ「生きたい」と思うこと。
小さな希望を信じること。
いや、信じられなくても、
それでも今日を終えること。
それが、きっと、生きるということなんだ。
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良かったら読んでいただけたらと思います
少しでも生きる力をみいだせれば幸いです
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医師にタンパク質を摂りなさいと言われたので。
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私の時にこれらを利用してたら、また違った人生だったかもしれない。
うつの時ってひとりではどうにもならないよね
私は大変だったんだ